第一章挑戦の原点と、明太子への目覚め
かねふくの歴史は、困難への挑戦から始まりました。
かつて大手の独壇場だった「煮ダコ」市場に、お客様の期待に応えたい一心で参入。
わずか1〜2年で圧倒的なシェアを獲得したこの「逆境を跳ね返す力」が、私たちのDNAです。
その後、タラコの原料卸売へと進出。
そこで目にしたのは、最高級の原料が必ずしも最高の形で届けられていない現実でした。
「納得できる最高の原料を、最高の味に仕上げて自ら届けたい」
原料の目利きとしての自負が、かねふく独自の明太子づくりをスタートさせる決定的なきっかけとなりました。
昭和53年明太子の販売をスタート
福岡では大きなシェアをとることができたのですが、当時この煮ダコを関東まで運ぶのにコストが掛かったため、他の会社に原料のタコを販売することにしました。
そのうち、タコだけではなく博多の明太子屋さんに原料のタラコを販売するようにもなったのですが、原料を持ってるんだからうちも明太子の販売をやろうと思ったんです。
そうするとまた社員から反対がくるんです(笑)。
原料を卸してるのにその加工品まで売るなんて節操がないんじゃないかと(笑)。
しかし、他の会社は博多だけでやってたので、うちは全国でやろうといって明太子の販売をスタートしました。
昭和54年各地に工場を建設
関西・関東の右も左もわからない状況ではありましたが、大手だったモランボンさんが明太子販売に参入してきて、朝から晩までテレビCMを流し始めました。
そのおかげで認知度が一気に高まり、私達のところにもたくさんお問い合わせが来るようになったんです。
それから私たちも明太子一本に絞ろうと、各地に工場を作り始めました。
第ニ章ブランドの確立と、
広がる食のエンターテインメント
「かねふくなら間違いない。」
そう言っていただける信頼を築くため、私たちは圧倒的な品質にこだわりました。
社長自ら極寒の産地で原卵を厳選する「原料への執念」と、旨味を極限まで引き出す「二段仕込み製法」。
この妥協なき姿勢が、かねふくを信頼のブランドへと押し上げました。
さらに、私たちは明太子を単なる商品ではなく「笑顔を創る文化」へと進化させました。
日本初の明太子テーマパーク「めんたいパーク」を展開し、製造工程の公開や「できたて」の提供を通じて、五感で楽しむ食のエンターテインメントを確立。
年間数百万人のお客様に、明太子の楽しさと感動を直接届ける挑戦を続けています。
昭和60年加工する工場を海外にも建設
原料にこだわり、海外まで足をのばしていましたが、輸入できる量に制限がありますので、現地に工場を建設する方向に進みました。
原料の輸入は規制の対象になるけれど、加工品はOKという法律があったからですね。
昭和62年明太子市場に全国の大手が参入
この頃は、明太子の販売にも張り合いがありました。広告を出せばそれだけ認知度もあがり、努力も報われていました。
しかしそうこうしているうちに、これ以上伸びなくなるという時期が来ました。
始めのうちは「博多の明太子」という事に付加価値があったのですが、いつの間にか「博多」の付加価値が薄れていったのです。
そうすると全国の大手が参入してきましたので、また違う勝負をしなければならなくなったのです。
現在徹底した「味」への追及
かねふくがブランド力を打ち出すポイントは徹底して「味」でした。
どんなに味付けがうまくても、原料がよくないと本当のおいしさ、また食べたいと思ってもらえるような味にはならないんです。
だからいまだにかねふくでは社長、専務が買い付けに行き、本当に良い原料を仕入れる事にこだわっています。
第三章次なるステージへ、
明太子で家庭の食卓をより豊かに
いま、かねふくは伝統の先にある、さらなる未来を見据えています。
私たちの次なる使命は、「明太子の可能性をさらに拡げ、家庭の食卓をさらに豊かにすること」です。
明太子は、ご飯のお供に留まらず、和・洋・中あらゆる料理に新しい命を吹き込む「和のスパイス」としての可能性を秘めています。
現代のライフスタイルに寄り添った簡便なメニューの提案や、これまでにない斬新な食べ方の発信、そして次世代を担う子どもたちへの食育。
常識にとらわれない発想で、明太子のポテンシャルを最大限に引き出し、家族の会話が弾む「彩りある食卓」を世界中へ広げていきます。
未来海外も含め、事業の拡大に向けて
邁進中
かねふくは、安全・衛生に対する全社員の意識の高さと品質・味へのこだわりで、多くの方々に認知してもらっています。めんたいパークは年間100万人の来場者があり、新製品を出すたびにテレビでCMが流れます。
現在も新しい工場やめんたいパークの建設を進めており、ますます事業の拡大を図っているところです。