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かねふく物語

創業から現在までの歩み

昭和42年、魚市場を回ると煮ダコがとても売れていましたので、私たちも煮ダコの販売を始めようとしました。しかしながら、煮ダコの販売は当時大企業が牛耳っていましたので、最初は社員から大反対されました。
それでも売れる物を扱わないとダメだという考えから、私たちも煮ダコの販売をスタートしました。すると、市場の方たちの応援があり、1~2年のうちにシェアの90%をとることができました。
この成功が加工部門の始まりです。

株式会社かねふく
代表取締役会長 竹内 昌之

  • 昭和53年明太子の販売をスタート

    福岡では大きなシェアをとることができたのですが、当時この煮ダコを関東まで運ぶのにコストが掛かったため、他の会社に原料のタコを販売することにしました。そのうち、タコだけではなく博多の明太子屋さんに原料のタラコを販売するようにもなったのですが、原料を持ってるんだからうちも明太子の販売をやろうと思ったんです。そうするとまた社員から反対がくるんです(笑)。原料を卸してるのにその加工品まで売るなんて節操がないんじゃないかと(笑)。
    しかし、他の会社は博多だけでやってたので、うちは全国でやろうといって明太子の販売をスタートしました。

  • 昭和54年各地に工場を建設

    関西・関東の右も左もわからない状況ではありましたが、大手だったモランボンさんが明太子販売に参入してきて、朝から晩までテレビCMを流し始めました。そのおかげで認知度が一気に高まり、私達のところにもたくさんお問い合わせが来るようになったんです。
    それから私たちも明太子一本に絞ろうと、各地に工場を作り始めました。

  • 昭和60年加工する工場を海外にも建設

    原料にこだわり、海外まで足をのばしていましたが、輸入できる量に制限がありますので、現地に工場を建設する方向に進みました。原料の輸入は規制の対象になるけれど、加工品はOKという法律があったからですね。

  • 昭和62年明太子市場に全国の大手が参入

    この頃は、明太子の販売にも張り合いがありました。広告を出せばそれだけ認知度もあがり、努力も報われていました。しかしそうこうしているうちに、これ以上伸びなくなるという時期が来ました。
    始めのうちは「博多の明太子」という事に付加価値があったのですが、いつの間にか「博多」の付加価値が薄れていったのです。そうすると全国の大手が参入してきましたので、また違う勝負をしなければならなくなったのです。

  • 現在徹底した「味」への追及

    かねふくがブランド力を打ち出すポイントは徹底して「味」でした。
    どんなに味付けがうまくても、原料がよくないと本当のおいしさ、また食べたいと思ってもらえるような味にはならないんです。だからいまだにかねふくでは社長、専務が買い付けに行き、本当に良い原料を仕入れる事にこだわっています。

  • 将来海外も含め、事業の拡大に向けて邁進中

    かねふくは、安全・衛生に対する全社員の意識の高さと品質・味へのこだわりで、多くの方々に認知してもらっています。めんたいパークは年間100万人の来場者があり、新製品を出すたびにテレビでCMが流れます。
    現在も新しい工場やめんたいパークの建設を進めており、ますます事業の拡大を図っているところです。