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かねふく物語
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昭和60年加工する工場を海外にも建設
原料にこだわり、海外まで足をのばしていましたが、輸入できる量に制限がありますので、現地に工場を建設する方向に進みました。原料の輸入は規制の対象になるけれど、加工品はOKという法律があったからですね。
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昭和62年明太子市場に全国の大手が参入
この頃は、明太子の販売にも張り合いがありました。広告を出せばそれだけ認知度もあがり、努力も報われていました。しかしそうこうしているうちに、これ以上伸びなくなるという時期が来ました。
始めのうちは「博多の明太子」という事に付加価値があったのですが、いつの間にか「博多」の付加価値が薄れていったのです。そうすると全国の大手が参入してきましたので、また違う勝負をしなければならなくなったのです。